名古屋地方裁判所 昭和62年(ワ)2563号 判決 1992年4月15日
原告
大嶋久美子
同
大嶋弘政
右両名訴訟代理人弁護士
伊藤静男
同
野田弘明
右訴訟復代理人弁護士
高橋二郎
同
尾関孝英
被告
土方康充
右訴訟代理人弁護士
後藤昭樹
同
太田博之
同
立岡亘
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一申立て
一被告は、原告らに対し、それぞれ金二〇〇〇万円及びこれに対する昭和六一年七月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え(内金請求)。
二仮執行の宣言
第二事案の概要
本件は、診療中に死亡した患者の遺族らが担当医に対し、債務不履行(予備的に不法行為)による損害賠償を求めた事案である。
一争いのない事実
1 当事者
被告は、頭書住所地において土方クリニック宮田医院(以下「被告医院」という。)を開設する医師であり、原告らは、亡大嶋美幸の子である。
2 診療契約の成立
美幸は、昭和六一年七月七日、腹痛、発熱等を訴えて被告医院を訪れ、被告と診療契約を締結してその診療を受けた。
3 美幸の死亡
被告は、同日、美幸が細菌性急性胃腸炎に罹患しているものと診断し、看護婦をして抗生物質リンコマイシン、鎮痛剤セスデン等の点滴静注をさせたが、美幸は、その間に発熱し、さらに、血圧が低下して意識障害を起こし(以下「本件事故」という。)、名古屋市立東市民病院に転送されたが、同月一四日、同病院において死亡した。
二争点に関する当事者の主張
1 美幸の死因(争点1)
(一) 原告ら
美幸は、本件事故当日、被告が点滴静注により投与した抗生物質リンコマイシン若しくは鎮痛剤セスデン又は静注により投与した解熱鎮痛剤ヴェノピリンによってアナフィラキシーショックに陥り、このため腎臓及び肝臓の障害を起こして死亡したものである。
(二) 被告
美幸がアナフィラキシーショックにより死亡したことは否認する。
美幸は、被告医院を受診した時点で、細菌感染による敗血症ないし菌血症に罹患していたものであり、そのため抗生物質等を含むリンゲル液の点滴静注を受けている間に高熱を発したことと、それ以前から下痢と食欲不振による脱水のため循環血液量が減少していたことによって、敗血症に伴う細菌毒素によるショックを生じ、あるいは重畳的に、解熱のため静注を受けたヴェノピリンによりアナフィラキシー様反応を生じたものである。
2 被告の過失の有無(争点2)
(一) 原告ら
被告には美幸の診療に当たって次のような過失があったため、アナフィラキシーショックが発生し、又は右ショックに対する適切な処置が採られることなく、美幸は死亡したものである。
(1) 不必要な薬剤投与
アナフィラキシーショックを防ぐためには、使用する薬剤を最小限に止めておく必要があるところ、被告は、本件事故当日、美幸にブドウ糖―乳酸リンゲル液、抗生物質リンコマイシン、鎮痛剤セスデン、各種のビタミン剤、ステロイドホルモン剤リノロサール及び解熱鎮痛剤ヴェノピリンを投与しており、これだけの薬剤を使用すれば、アナフィラキシーショックがいずれかの薬剤により生じたか、又は生じやすい状態になっていたところヘヴェノピリンが引き金になったものであり、被告は、不必要な薬剤を投与した過失がある。
特に、リンコマイシンの投与については、その適応を欠くものであった。すなわち、美幸の発熱、下痢及び腹痛の症状は、虚血性大腸炎によるものであって、細菌性のものではなかったし、仮に細菌性のものであったとしても、大腸炎、腎盂炎(ないし腎盂腎炎)の原因菌の九〇パーセントはグラム陰性桿菌で、中でも大腸炎が七〇ないし八〇パーセントであるところ、リンコマイシンは、これらの菌に対して無効であり、しかも、大腸炎を悪化させる薬剤である。したがって、美幸に投与すべきではなかった。
(2) 問診の不履行
薬剤を投与する医師としては、薬物に対する過敏体質の有無を確認するために、単に概括的、抽象的に注射直前における身体の状態についてその異常の有無を問診するだけでは足りず、禁忌者を識別するに足りるだけの具体的質問として、症状、体質的素因の有無及びそれらを外部的に徴表する諸事由の有無につき、的確な応答が可能なように具体的かつ適切な質問をする義務がある。
ところが、被告が美幸に対して行った問診はきわめて不十分で、気休め程度のものであったため、美幸が薬物過敏体質であるのを発見できなかったものである。
(3) 投与前テストの不履行
リンコマイシン、セスデン及びヴェノピリンはアナフィラキシーショックを起こす可能性のある薬剤であり、投与する前にテストを行うべきであったのに、被告はこれを怠った。
(4) 副作用の危険性についての説明義務違反
被告は、美幸に対し、投与する薬剤の副作用について説明すべきであったのに、これを怠った。
(5) 薬剤の投与方法の誤り
薬剤によるショックは、経口投与よりも筋肉注射、筋肉注射よりも静脈注射によって発生しやすいが、被告は、さして緊急性がないにもかかわらず、美幸に対して数種の薬剤を点滴薬の中に配合して点滴静注を施し、しかも、薬剤の配合も投与も看護婦任せにした。薬剤の配合は、薬剤師又は医師に限ってすることができ(薬剤師法一九条)、また、静脈注射は医師自らなすべきものとされているのであり、被告は、これらの義務に違反した。
また、ヴェノピリンは時に重篤なショックを起こす薬剤であるとされているのであるから、その使用に際しては、まず少量を注入して患者の状態を観察し、異常を認めなければそれから三分以上かけて徐々に注射すべき注意義務があったのに、被告はこれを怠った。
(6) 薬剤投与後の観察義務違反
薬物によるショックには、悪寒、戦慄、発熱等の多くの前駆症状があり、また、血圧も九八ないし五八からいきなり六六ないし〇になることはなく、血圧低下の兆候が見られたはずである。したがって、被告において、美幸の状態を十分観察していれば、より早くショックの発生に気付くことができたのに、被告は、看護婦にリンコマイシン及びセスデンの点滴静注をさせ、自らは他の患者の診察に当たっていて、美幸に対する観察が不十分であったし、ヴェノピリンの投与後も、美幸の状態を十分観察していなかった。このため、被告はショックの発生に気付くのが遅れたものである。
(7) ショック発生後の治療義務違反
アナフィラキシーショックの発生後は、直ちに薬剤投与を中止し、気道の確保、酸素吸入、抗ショック剤の投与等の迅速な治療を開始すれば救命が可能であり、被告としてはこれをすべきであったのに、被告はショック症状がかなり進行して初めてこれに気付き、ショック発生直後に適切な処置を採ることを怠った。
(二) 被告
(1) 薬剤投与の必要性及び問診について
解熱鎮痛剤ヴェノピリンは、アスピリンDL―リジン九〇〇ミリグラムを含むサルチル酸系解熱鎮痛剤であり、時に重篤なショックを起こす薬剤であるが、美幸は、被告の薬物アレルギーに関する問診に対し、ピリン剤及びサルチル酸剤について過敏症でない旨返答していたのであるから、美幸の異常な高熱に対して、一般に解熱剤として用いられるヴェノピリンを静注したことには何ら過失はない。
また、ヴェノピリン以外の薬剤については、美幸に生じたショックとは因果関係がないのであるから、これらの投与について過失を問われることはない。
なお、被告は、カンピロバクター性の大腸炎及びこれを原因とする腎盂炎を疑ってリンコマイシンを投与したのであり、カンピロバクターはリンコマイシンに感受性がある。したがって、リンコマイシンは、不必要な投与ではなかった。
(2) 薬剤投与後の観察について
ヴェノピリン投与後も、被告は美幸の状態について十分注意していたから、何ら義務違反はない。すなわち、静注後一〇分ほどして美幸の意識障害が強くなるのを観察しているし、血圧にも注意を払い、血圧六六ないし〇を直ちに発見している。原告らは、被告が前駆症状を見逃していたと主張するけれども、そもそもアナフィラキシーショックとは血圧の低下であり、それ以外に前駆症状などというものは存在しない。
また、美幸がショック状態となった後の被告の処置についても、適切であり、何ら過失はない。
3 損害(争点3)
(一) 原告ら
(1) 美幸の損害の相続
① 美幸の損害
四九二二万〇〇五二円
ア 逸失利益
二八二二万〇〇五二円
美幸は、昭和二二年一月三日生まれで、一三年前に夫を亡くし、女手一つで原告らを養育し、アイスクリームの販売(自営)のほかパートタイムでも働いていたのであり、その逸失利益は二八二二万〇〇五二円を下らない。
イ 慰謝料 二〇〇〇万円
ウ 葬儀費 一〇〇万円
② 原告らの相続
各二四六一万〇〇二六円
(2) 原告ら固有の慰謝料
各五〇〇万円
(3) 弁護費用 各二〇〇万円
(4) 合計
各三一六一万〇〇二六万円
(二) 被告
原告らの主張は争う。
第三争点に対する判断
一前記第二の一の事実及び証拠(<書証番号略>、証人永田、同高城、同末次、同水野、被告本人)によれば、美幸の死亡に至る事実経過等について、以下のとおりの事実を認めることができる。
1 被告は、昭和四八年五月から被告医院において内科及び小児科を診療科目として開業しているが、被告医院においては被告の妻が皮膚科及び性病科を担当し、看護婦は大体常時五、六人くらい、事務員六、七人くらい、検査技師一人という態勢で診療を行っている。
2 美幸は、昭和六一年七月五日ころから体の具合が悪く発熱していたが、同日は大してひどくなかったので、夕方、市内のサッポロビール園で飲酒した。しかし、夜中になって腹の不調を来し、翌六日も発熱が続き、腹痛があって二回下痢をしたため、千種区の休日急病診療所で受診し、投薬を受けた。その後も、悪寒戦慄の後四〇度まで発熱し、腰痛、筋肉痛があり、食欲が全くなく、飲食物は一切口にしないという状態であった。翌七日、美幸は原告らの食事と洗濯等を済ませた後、自転車で被告医院を訪れ、発熱、全身の倦怠感、食欲不振、腹痛、腰痛があり、下痢は止まったが口渇感があると訴えた。
3 被告が診察したところ、心音、呼吸音は正常、腹部は平坦で特定の圧痛点はなく、皮膚のツルゴール(緊張感)はやや低下していたが、浮腫及び出血斑はなかった。また、顔面は貧血気味で元気がなかった。脈拍は整であるが弱くて毎分一〇二回、血圧は九四ないし六六、体温は37.9度であった。検尿をしたところ、ペーハー・七、尿糖・マイナス、尿蛋白・プラス、潜血・ツープラス、ウロビリノーゲン・プラス、ビリルピン・マイナス及びケトン体・プラスという結果であった。被告は、診察の結果、前から発熱があること、腹痛、下痢等の症状から、細菌性の急性大腸炎と診断したが、高熱が出たことや検尿の結果からみて大腸炎の細菌により腎盂炎の合併症を疑い、また、脱水があると診断した。そして、脱水に対する輸液として、ブドウ糖―乳酸リングル液五〇〇ミリリットル、ビタミンB1剤レボラーゼ五〇ミリグラム、ビタミンC五〇〇ミリグラム、ビタミンB2剤ビタロジン2一〇ミリグラム及びビタミンB6剤ピドキサール三〇ミリグラムを点滴することとし、これに、腹痛に対して平滑筋の攣縮を緩めるための抗コリン剤であるセスデン二アンプル及び急性大腸炎及び腎盂炎のために抗生物質ルニアマイシン(リンコマイシン製剤)六〇〇ミリグラムを混ぜて、午前一〇時過ぎころ点滴静注を開始した。なお、点滴は、約二時間位かける予定で毎分六〇ないし七〇滴に速度が調節されており、被告の診察室から廊下を隔てて隣にある回復室において行われ、看護婦が交替で一〇ないし一五分間隔で様子を見た。
4 約一時間ほどして輸液量の約半分の二五〇ミリリットルの輸液が終わったころ、美幸が悪寒戦慄を訴えたので、看護婦から連絡を受けた被告が診察し、直ちに点滴を中止したが、美幸は昨日と同じだから大丈夫である旨述べていた。その二〇分くらい後には、悪寒戦慄は徐々に治まったが、体温38.5度、血圧一一六ないし八〇、脈拍毎分一〇六回という状態となり、被告は、このような発熱の原因として、点滴した薬物に不純物が混じっていた可能性あるいは薬物アレルギーの可能性を考えて、アレルギーを抑える目的でステロイドホルモン剤リノロサール(べータメサゾン製剤)四ミリグラムを筋肉注射した。
5 美幸は、その後も歩いて手洗いに行くなど意識はしっかりしていたが、更に体温が上昇し、体温計では42.8度と計測され、このときは、血圧九八ないし五八、脈拍は整で毎分一〇六回、対光反射・プラスで、呼吸困難及びチアノーゼはなく、話しかければうなづく程度のことはできたが、言葉としては聞き取れないような状態で、呼吸も少し速く、汗も非常に多くかいていた。被告は、このとき以降は、自ら美幸のそばについて必要な処置をするようになったが、このような高熱の原因として、被告の投与した薬物に対する反応、あるいは細菌によるエンドトキシンショックということも考えたが、高熱を下げる必要があったため、解熱剤を投与することとし、二〇パーセントブドウ糖二〇ミリリットルにアスピリン製剤ヴェノピリン一アンプルを混ぜ、看護婦の永田静子が時間をかけてゆっくり静注した。
6 右注射後約一〇分して体温は徐々に下降してきたが、意識障害は強くなり、血圧は六六ないし〇と極度に低下し、脈拍は整で毎分一一〇回、呼吸はやや促拍、チアノーゼは見られず、対光反射はあったが瞳孔が散大してきた。被告は、美幸がショック状態であると考え、血管確保をしてブドウ糖―乳酸リンゲル液五〇〇ミリグラムに昇圧剤としてノルアドレナリン一アンプル、アレルギー反応抑制剤としてステロイドホルモン剤リノロサール四ミリグラムを混ぜて点滴静注を開始し、酸素吸入を施した。また、同時に東市民病院に連絡し、同病院の集中治療室(ICU)に収容してもらうべく救急車で転送した。
7 美幸が東市民病院に入院したときの状態は、昏睡状態で、血圧は五〇ないし〇、過呼吸状態、瞳孔は散大し、皮膚には著しい発汗が認められたため、循環器性ショックの状態にあると診断され、ステロイドホルモン、昇圧物質及び利尿剤の投与を受けた。血圧は間もなく回復し、一二時五〇分には一一三ないし六二となった。
8 七月八日及び九日はやや小康状態で、意識も少し覚醒し、うなり声をあげるような状態であったが、瞳孔の散大は続き、呼吸もかなり瀕回であり、また、血小板減少性の紫斑の傾向が見られ、同時に、肝機能及び腎機能の障害が進行していることが判明したため、一〇日から血液透析が行われたが、結局、同月一四日急性腎不全及び急性肝障害により死亡した。
二美幸の死因について(争点1)
1 前記一の事実及び証拠(<書証番号略>、証人高城、同末次、被告本人、鑑定)によれば、美幸の死因に関し、次のとおり認定判断することができる。
(一) 美幸の直接の死因は急性腎不全及び急性肝障害であるが、その原因は、昭和六一年七月五日に発症した悪寒戦慄を伴う熱性疾患に罹患し、同年七月七日午前に被告医院において治療を受けていたときにショック(全身性急性循環不全)に陥ったことにある。一般にショックの原因には、① 循環血液量の低下によるもの(出血、脱水、血管外への水分の漏出など)、② 心臓・大血管に起因するもの(心臓からの血液の拍出量の低下)、③ 細菌毒素によるもの、④ 過敏性アナフィラキシーないしアナフィラキシー様反応によるもの、⑤ その他、があるが、本件においては、①、③及び④の原因が複合的に関与してショックに陥ったものとみることができる。
(二) 悪寒戦慄を伴う四〇度位の発熱が、本件事故の前日から既に発生しているので、被告医院において点滴中に起きた悪寒戦慄を伴う発熱も、同じ原因によるものであり、その原因としては、細菌性大腸炎から発展した敗血症ないし菌血症に伴う細菌毒素によるものとみることができる。なお、美幸の体温が42.8度と計測された時点においては、血圧は九八ないし五八であったので、まだショックは生じていなかった。
(三) 典型的なアナフィラキシー反応は、抗原暴露から五分以内、遅くとも三〇分前後で起きるものであり、全身的な末梢血管拡張と毛細血管の透過性が増加して血中の水分が血管外に漏れ出ることによる循環血液量の急激な減少を主な原因とする全身末梢循環不全であり、早ければ数分後、遅くとも一時間程度以内に血圧の低下、意識障害などを来すものであるとされ、その発生機序は、抗原と特異的に反応する免疫グロブリンE抗体が結合し、体の組織中の肥満細胞及び好塩基球からヒスタミンその他の化学伝達物質と呼ばれる物質が一度に放出されて起きる反応である。しかし、実際の臨床では免疫グロブリンEによらないで類似の反応が起きることも稀ではなく、さまざまな機序が考えられており、それらを総称してアナフィラキシー様反応と呼ばれている。そして、右のとおり血中から液体が一気に失われることによって血圧が低下するのであるから、この血圧低下は突然に起こるものである。皮膚の紅潮、じんましん、チアノーゼ、喉頭浮腫、喘息様発作、尿・便失禁などはいずれもアナフィラキシーないしアナフィラキシー様反応の結果化学伝達物質が放出されて起きる二次的な反応であり、臨床的に必ず随伴するとは限らない。アナフィラキシーショックの前駆症状として、口内異常感、口唇しびれ感、喉頭部狭搾感、嚥下困難感、くしゃみ、反射性咳発作、四肢末端のしびれ、心悸亢進、悪心、悪寒、眩暈、胸部不快感、眼の前が暗くはっきりしなくなった感じ、虚脱感、四肢の冷感、腹痛、尿意、便意などがあるといわれているが、これらの症状のすぐあとにあるいはこれらの症状と同時に血圧が低下しショック状態に陥るとされている。
(四) 本件においては、美幸にアナフィラキシーショックないしアナフィラキシー様過敏反応が生じ、その原因として薬物が関与していたといえるが、免疫グロブリンEを介する典型的なアレルギー性の反応ではなく、原因不明のアナフィラキシー様の過敏反応であったと考える。その原因薬物としては、時間的な経過からすればヴェノピリンの静注後間もなくショックに陥っていること、及びヴェノピリンはアスピリンDL―リジン九〇〇ミリグラムを含む静注用のサリチル酸系解熱鎮痛剤であり、時に重篤なショックを起こす薬剤とされていることからして、ヴェノピリンであるとみることができる。ただし、本件においては、美幸の発熱、脱水、細菌毒素の作用等が複合的に生じ、臨床症状の憎悪を助長したものである。
(五) なお、薬物によるアレルギー反応の中には、アルサス反応と呼ばれる高熱を発する型のものもあるが、それは、原因物質に暴露されて五、六時間経過してから発生するものであるから、美幸の前記発熱は本件事故当日に投与された薬剤の影響によって生じたものとはいえない。
2 なお、証拠(<書証番号略>、証人高城)によれば、被告医院から転送を受けた東市民病院の高城医師は、転送当時、美幸は循環器性ショックの状態にあり、顔は紅潮し、呼吸も促拍していたことから、アナフィラキシーショックの状態であると判断し、その原因薬物については、おそらくリンコマイシンであろうと判断していたことが認められる。
しかし、右証拠によれば、同医師は、本件事故当日、被告から、点滴をしていたら様子がおかしくなったとの事情及び点滴に用いた薬剤の内容を聞いて、右のように判断したに過ぎないこと、リンコマイシン自体は、前記のようなショックを起こす危険度は少ないものといわれていること、同医師はヴェノピリンもショックを進める促進因子になった可能性があるとしていることを認めることができ、さらに、美幸は、リンコマイシンの点滴静注を始めてから少なくとも一時間二〇分以上経過してからショック状態に陥っており、アナフィラキシーショックであるとすれば、投与開始後右のように長い時間が経過してから発生するとは考えにくいこと、また、点滴中に生じた悪寒戦慄に続く発熱はアナフィラキシーショックとは別の原因によるものと考えられることを考慮すると、高城医師の前記判断は右1の認定を左右するには足りないというべきである。
3 右によれば、美幸は、急性大腸炎に由来する敗血症ないし菌血症に伴う細菌毒素、高熱、脱水のため、ショックを起こしやすい状況下にあったところ、ヴェノピリンの静注によってアナフィラキシーショックに陥ったものということができ、被告によって本件事故当日投与されたその余の薬剤については、右ショックとの間の因果関係を認めることはできないというベきである。
なお、証拠(証人末次、鑑定)によれば、ショックの原因薬物としては、ショック症状発生の前一時間以内に使用した薬物はすべてその可能性があるとされ、また、一つの薬物であったとは限らないとされていることが認められるけれども、右のような事実から直ちに、ヴェノピリン以外の薬剤と美幸のアナフィラキシーショックとの因果関係を肯定することはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
三被告の過失について(争点2)
1 ヴェノピリンの投与について
右二の認定事実を前提として、被告の過失について検討するに、ヴェノピリンの投与が美幸の死亡と因果関係を有することは否定できないのであるから、まず、その投与及び投与方法の適否について検討する。
(一) 証拠(<書証番号略>、証人高城、証人末次)によれば、アスピリンDL―リジン(製品ヴェノピリン)については、財団法人日本医薬情報センター編集の「日本医薬品集」(昭和六二年七月発行)には、「適応」として「症侯性神経痛、緊急に解熱を必要とする場合、術後疼痛」が挙げられ、「用法」としては、「一回九〇〇ミリグラム(用時注射用蒸留水五〜二〇ミリリットルに溶解)、一日一〜二回静注(増減)。ただし、鎮痛の目的には内服が不可能な場合、又は効果が不十分な場合にだけ使用し、内服が可能になった場合には速やかに切り換えるべきである。」とされていること、「一般的注意」として「まれにショック等の重篤な過敏反応の発現が見られるので使用に際して少量注入後患者の状態をよく観察し、異常が認められた場合には速やかに中止し適切な処置をとる。ショック等の過敏反応を予測するために投与に際しては、アレルギー既往症、薬物過敏症等について十分な問診を行う」とされていること、「禁忌」としては「本剤又はサリチル酸製剤に対し過敏症の既往歴のある患者、消化性潰瘍のある患者、アスピリン喘息又は既往歴のある患者」とされ、「慎重投与」として「腎障害のある患者、出血傾向のある患者(血小板機能異常が起こる)、気管支喘息のある患者」が挙げられること、「副作用」として「ショック:まれにショック症状を起こすことがあるので、観察を十分に行い、眼瞼浮腫、血圧低下、脈拍微弱、意識混濁等の症状が現れた場合には中止し、適切な処置を行う」と記載され、「適用上の注意」としては、「使用に際しては、患者を横臥させ、一瓶を三分以上かけて徐々に注射する」こととされていること、ヴェノピリンによるショックの発生自体については、昭和五六年以前から報告がされており、最近はショックがよく出るというので使われなくなったこと、しかし、本件事故当時はよく用いられていたこと、ヴェノピリンによるアナフィラキシーショックの発生については、皮下テスト等の方法により事前にその発生を予測することはできないこと、以上のとおり認められる。
(二) したがって、ヴェノピリンを投与する医師としては、右の日本医薬品集に記載されているような注意事項に留意して、投与の可否を判断し、適切な方法で投与すべき注意義務があるものというべきであり、右注意義務を尽くした後にヴェノピリンを投与し、これによって患者にアナフィラキシーショックが生じたとしても、医師としては過失がないものというべきである。
そこで、被告において、右のような注意義務に違反する点がなかったかどうかを検討する。
(1) 適応について
前記一3及び4の認定事実によれば、美幸は悪寒戦慄に引き続いて体温が上昇し、42.8度と計測されたほどであり、その時の美幸の状態からしても緊急に解熱する必要があったということができるから、ヴェノピリンを投与することについてはその適応があったということができる。
(2) 問診について
証拠(<書証番号略>、証人永田、被告本人)によれば、被告は、初診の患者に対しては、必ず薬物アレルギーの有無を確認することとしているが、美幸については昭和六一年四月三〇日が初診であり、被告は、薬を内服、注射した後体の具合が悪くなったり皮膚に変化が生じたことがないかを問診し、本人にはそのようなことはなかったということを確認し、さらに、家族にもアレルギー体質の者はいないということを確認していたこと、このときは急性上気道炎という診断で抗炎症剤、消炎酵素剤、咳止め、去痰剤及び抗生物質をいずれも内服薬として投与し、その後、同年五月六日にも、同じく抗生物質、鎮咳剤、ピリン系鎮痛剤等を投与したこと、これらの投薬によって異常が生じなかったことは美幸に確認していること、同年七月七日の診察の際も、抗生物質等の点滴を開始する前に、薬に対するアレルギーの有無を美幸に問診し、体の具体が悪くなったことはないことを確認したこと、以上のとおりの事実を認めることができる。
右の事実によれば、被告は、昭和六一年四月三〇日及び本件事故当日の診察の際に、美幸の薬物アレルギーの有無について必要な問診を行ったものということができ、この点において過失はなかったということができる。
また、原告らは、薬剤の副作用について説明すべきであったのにこれをしなかったのが過失であると主張するけれども、右のような説明義務は医療水準上医療行為に伴う危険の発生頻度がかなり低い場合には生じないと解されるところ、被告は右認定のとおり必要な問診を行った上で美幸に薬物アレルギーがないものと判断して一般に用いられていた解熱鎮痛剤であるヴェノピリンを投与したのであるから、これに伴う危険の発生頻度はかなり低いものであったということができる。したがって、被告にアナフィラキシーショック発生の可能性について美幸に説明すべき注意義務があったということはできない。
(3) 投与方法について
前記一5及び6の事実によれば、被告は、二〇パーセントブドウ糖二〇ミリリットルにヴェノピリンーアンプルを混ぜ、看護婦の永田静子が時間をかけてゆっくり静脈注射し、この間被告は美幸のそばについて必要な処置をしており、意識障害及び血圧の低下が注射後約一〇分してから現れるのを観察していたのであるから、前記(一)のヴェノピリンの投与方法の記載に照らしても、適切な方法で投与されたものと認めることができる。
なお、ヴェノピリンについては、本件全証拠によるも、過敏体質を発見するため投与前テストをすべきものとされていたとは認められないから、投与前テストをしなかったことには何ら過失はない。
2 ヴェノピリン投与後の措置の適否について
原告らは、被告が、ヴェノピリンの投与後も、美幸の状態を十分観察し、副作用の発現に留意しなければならないのに、これを怠ったため、ショックの前駆症状及び血圧低下の兆候を見落とし、ショックの発生に気付くのが遅れたと主張するけれども、前記二1(三)に認定した事実によれば、アナフィラキシーショックによる血圧の低下は突然に起こるものであるから、血圧低下の兆候を見落としたとする主張はその前提を欠く。また、前記二1(三)のとおり、アナフィラキシーショックの前駆症状として様々な自覚症状があることが指摘されているけれども、これらの症状は血圧の低下と同時に生じることもあるとされているのであって、ショックに先立って必ず右のような前駆症状が見られるとされているわけではない。したがって、ヴェノピリンの投与後、被告が美幸について右のような前駆症状を認めていないとしても、そのことから、被告の美幸に対する観察に不十分な点があったということはできない。
また、ショック発生後の措置についても、前記一5及び6の事実によれば、被告は、美幸のそばについて必要な処置をしており、ヴェノピリン投与後の血圧低下に気付いて、直ちに血管確保をし、昇圧剤としてノルアドレナリン及びアレルギー反応抑制剤としてステロイドホルモン剤リノロサールを投与し、酸素吸入をし、かつ、東市民病院への転送の措置を採ったものであるから、原告ら主張のような過失はないというべきである。
3 その他の薬剤の投与の適否について
原告らは、被告が本件事故当日美幸に投与したその他の薬剤についても、その投与の必要性、問診の適否、投与方法等について過失があったと主張するけれども、前記二3判示のとおり、ヴェノピリン以外の薬剤については、本件事故との因果関係が認められないというべきであるから、原告らの右主張はその前提を欠くというべきである。
なお、付言するに、前記1(二)(2)認定の事実によれば、被告は、これらの薬剤を投与する前に、美幸に対して必要な問診を行ったということができ、また、前記一認定の事実に照らせば、いずれの薬剤も、投与の必要性があったもので、不適切な投与はなかったということができるから、いずれにせよ、原告ら主張のような過失はないというべきである。
四結論
以上のとおりであるから、被告には、美幸の診療に当たって過失はなく、債務不履行責任も不法行為責任もないというべきであるから、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がない。
(裁判長裁判官瀬戸正義 裁判官杉原則彦 裁判官後藤博)